その人は ぼくの目の前で



ただ 静かに






(そら)を仰いで 呟いた ――――






  過去の英雄 未来の英雄 ・1



 かつて黄金の都と謳われた、元赤月帝国、現在はトラン共和国となった国の首都グレッグミンスター。
 その街の中心地からやや離れた場所に聳え立つ立派な建物が、トラン建国の英雄様のご生家であることは、街の住民には周知の事実。
 英雄の活躍した解放戦争が終結して三年。
 件の英雄は、終戦直後に行方を眩ませて以来、姿を見ない。

 いつもと変わらぬはずだったその日の夕暮れに。
 三年の年月を経て故郷の人々の前へと戻って来た救国の英雄は、一人ではなかった。



++++

―――― そんなわけで、彼らとモンスター退治を少々・・・ね」
 明りの灯った広い部屋の真ん中で、座り心地の良いソファーに身体を埋もれさせて喋るのは、三年ぶりに帰還したこの屋敷の主である少年。
 その正面のソファーに座って呆れた表情で少年の言葉を聞いているのは、主の帰還を三年間待ち続けていたこの屋敷の家人である女性。
「なるほど・・・泥まみれの子供たちが玄関前に突っ立っていたのを見たときには何事かと思いましたけど」
「あれ・・・そこ俺もカウントされてるの?」
「当然です。三年、一人旅をされていても、坊ちゃんは坊ちゃんのままでしたね」
「どーゆー意味かなぁ」
「そのままの意味です」
 微笑みながらしかし少年の言葉を一刀両断した彼女には遠慮も容赦もない。
 変わらぬその対応に、知らず頬が緩んだ少年の顔を見つめる彼女の表情は、優しい。
「お変わりないようで、安心しました」
「・・・・・・そ、う?」
「ええ。一人で行かせてしまったことを、少し後悔した時期もあったんです。坊ちゃんが望んだからといって、本当に一人にしてしまって良かったのかと・・・・・・きっと、それで良かったんですね」
 寂しげに微笑む彼女の顔には、三年前にあった悲しみの色はない。
 そのことに、内心安堵して笑う。
「心配かけて、ごめんね。クレオ」
「いいえ・・・遅くなりましたけど、おかえりなさい、坊ちゃん」

「・・・・・・・・・ただいま・・・」
 当たり前のことに、今更気が付いた。
 おかえりと言ってくれる人がいなければ、ただいまは言えない。
 かつての戦争で、そんな些細な幸せをも失ったであろう人々がいる中で、自分はきっとまだ、恵まれている。

 コンコン・・・
 控えめなノック音が部屋に響いた。
 クレオが立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのは共に連れ立って帰って来た子供たちの内の一人。
 彼もまた、かつての戦争で大切なものを失った。
「フッチ君。どうしたの」
「あ、あの・・・ヤトさんが気が付きました、と」
「あら本当?もう大丈夫なのかしら。何か軽い物でも持っていく?」
「俺が用意するよ。夕食の残りでいいかな」
 言いながら既に部屋を出て厨房に向かっている屋敷の主に、フッチは慌てて追いすがった。
「ラ、ラディっ。それくらいなら僕でも出来るから・・・っ」
 フッチが小走りになっているのは慌てているのもあるが、目の前の少年の歩行速度が普通にしていても尋常じゃない速さだということを知っているからだ。
 背筋を伸ばして前を見据え大股で進む姿は、フッチの記憶の中にある背中と何ら変わりがない。
 家の中で就寝前だからか、頭の後ろで揺れる草色のバンダナはなく、代わりに艶のある漆黒の髪の毛が頭の上でひょいひょいと跳ねている。
 その背中が、唐突に歩みを止めた。
 結果、必死に小走りだった少年は勢いを殺せず目の前の背中に激突した。
 かつての戦時中にも実は度々あったことで、激突された方は何事もなかったかのように振り向いて笑顔を向けてきていたのだが、ひとつだけ違うことが起きた。
 フッチの激突の衝撃に耐え切れず、目の前の背中がよろめいたのだ。
 かつてはビクともしなかった背中が。
 そして否応無しにもうひとつの事実に気が付かされる。
 三年前に見上げていたはずの漆黒の髪の毛が、自分の目の高さと変わらなくなっていたことに。
 その残酷な、真実を思い知る。
 これが・・・真の紋章・・・・・・
「フーーッチ?」
「・・・え?」
「だいじょぶ?ごめんね、俺の背中固くて。どっか打った?」
「えっ、いや、平気です。何ともないですっ」
「そ?・・・ふーん、背伸びたね。そりゃ俺も吹っ飛ばされるわけかぁ」
「・・・・・・・・・」
 思わず沈黙して固まってしまったフッチに気が付いていないのか、ラディはまだかろうじて少し低い位置にある少年の頭を軽く撫でてから、厨房に足を踏み入れた。
「んー、ヤトくんには好き嫌いってある?」
「・・・いえ、今のところは見たことないです」
「へえ、えらいねぇ。じゃあ、油でこってこての奴以外を適当に持っていけばいいかな」
 何が楽しいのか、鼻歌まじりに残り物をひょいひょいと選定していくラディの横顔を、フッチはポカンとした表情で見つめるしかない。
 というか・・・起き抜けの人間が果たしてそんな量を食べられるのだろうか。
 有無を言わさず笑顔で山盛りの皿を差し出す姿が容易に想像できてしまったフッチは、隣の陽気な確信犯に気付かれないよう、そっと息を吐き出した。

 ヤトさんごめんなさい。
 僕なんかじゃ、これ、止められない・・・


++

 暗く静まり返った屋敷の廊下に、控えめな靴音が響く。
(うー・・・ぜ、ったい・・・食べすぎ、た・・・・・・)
 うんうん唸りながら真夜中の薄暗い廊下を進む少年は、腹部の辺りをさすりながらよろよろと歩いている。
(だってあんな笑顔で出されちゃったら、まさか残すわけにもいかないし・・・)
 しかも出された食事が全てにおいてやたら美味だったのもいけなかった。
 トランの貴族は毎日あんなイイ物食べてるんだろうか。羨ましい。・・・じゃなくて。

 結局、フッチの予想通りに全ての事が進み、寝台の住人でいたヤトに届けられたのは「夕食の残りで悪いけど」という殊勝な言葉とは裏腹に、がっつりしっかりとかなり、山と盛られた「夕食の残り物」の数々だった。
 思わず、え?これ一人用?と、笑顔で山盛りの大皿を持つ人の隣にいる少年を見遣ったら、何故か視線を逸らされたので、まさかお断りするわけにもいかず、恐る恐る受け取ってしまったのだ。
 そしてやはり、量が多かった。
 だがそれ以上にヤトにとって誤算だったのが、出された「残り物」が美味すぎたことだった。
 正直、自分が主となっているお城のレストランで出される食事よりももしかしたら美味だったのではないかと思えるくらいに。
 だから限界以上に詰め込めてしまった、という結果に陥り、挙句あまりの満腹加減のせいで寝台のふかふかの布団の中に潜り込んでも全く寝付けなくなってしまい、仕方なしにこっそりと部屋を抜け出し、少しでも腹ごなしになればと広い屋敷の中を真夜中の散策・・・となったわけであるが
(広すぎる・・・迷う・・・・・・)
 ここ最近、広く複雑な構造のお城で生活をしているからと言っても、迷うもんは迷う。
 それにこれ以上、元いた部屋から離れると今度は戻れなくなる可能性が高い。
 さすがにそれはゴメンだと思い、来た道を戻ろうとしたところで、明りの落ちた薄暗い廊下に一筋の光が漏れ出ているのを見つけた。
 とある部屋の扉が、薄く開いている。
 なんだろう?と思い、ヤトは極力足音と気配を殺して近付く。
 客室にとあてがわれたのとは違う部屋だというのは分かるが、誰かがまだ起きているにしても部屋の扉をしっかりと閉め忘れるなんてことあるだろうか。
 貴族にしてはそれらしい警備をしていない無防備なお屋敷であるから、まさかと思うが、そのまさかの泥棒なんだろうかとやや不穏な思考になりつつ、一歩づつ近付いていく。
 満腹で思うように動かせない身体なのが微妙に不安なところである。
 手を伸ばせば扉に指先が触れる、というところまで来て、部屋の中に人の気配を感じた。
 微かに漏れ聞こえる、小さな声。

「・・・・・・ッド・・・ばかやろぅ・・・」

 掠れて判断しにくかったが、その声の主が誰だか分かってしまったヤトは静かに息を呑む。
 閑静で小さな村で出会ってからまだ一日と経っていないが、その間いつだって飄々とした掴みどころのない態度しか示さなかったその人が。
 独り
 静かに
 掠れて弱々しく覇気のない声で誰かに向かって悪態を吐いている。
 誰か、と言ったって部屋の中には彼以外の人の気配はない。
「・・・・・・・・・・・・」
 トランの英雄は、悲劇の英雄。
 失くして失くして失くして・・・、最後に掴み取った平和。
 彼の元に残ったものは何もなかったから、終戦直後に行方を眩ませたというのが、伝わる話。中には、最終戦の過酷な戦いの最中に戦死したのではないかと邪推する歴史学者もいるくらいだ。
 ヤトが知るのは、全て伝え聞いた、脚色された話ばかり。
 今の仲間の中には、トランの英雄が英雄になる前のその人を直接知る人たちが何人かいるけれど、彼らからその時代の話を聞いたことはない。
 本当は少し、聞いてみたい気持ちもあるのだけど。
 そんな時は敏感に察知するのか、皆一様に上手く話をはぐらかしてくれる。
 だから聞いたことはない。
 トラン解放戦争中に、本当は何が起きていたのか。
 自分の前に天魁の星という重荷を背負わされた人に、何が降り懸かっていたのか。
 彼が、全てを失くして平和を得たというのは、本当なんだろう。
 静まり返った広大な屋敷を包み込む、ひっそりとした空気。
 普通、こんな大きな屋敷でしかも建国の英雄のご実家が、いくら真夜中だからって、こんなに静かでいいものなのか。
 もっと・・・そう、もっと使用人とかがいてもいいはずだ。
 三年、主がいなかったからと言ったって、これはどうなのだろう。
 だってあまりにも、人の気配が、ない・・・
「・・・・・・・・・・・・」
 戻ろう。
 部屋に戻って、今夜は眠れそうにないけど、とにかく布団の中に入って。
 目を瞑ってむささびでも数えていよう。
 むささびがいっぴき、にひき・・・あ、いい感じだ。よし。
 そこで気合いを入れ直したのがまずかったのか。まずかったんだろう。

 コツリ。盛大に踵が床を打つ音が響いた。

 キ・・・と静かに扉が開く。

「ぁ・・・」
「・・・・・・ヤトくん?」
 部屋の明りを逆光に、扉から顔を出した彼はあまりにあっさりと廊下に立ち尽くす少年へと声をかけた。
 頬には危惧した跡は見られなかったけれど、それでも彼がそこで何をしていたかなんて、分かりたくなかった。
 なんとなく分かってしまった自分の察しの良さを、この時ほど恨んだことはない。


 孤独を背負った英雄がひとり。
 近く、英雄と呼ばれることになるであろう少年と。

 真夜中に交わされた二人だけの会話は、歴史の表に出ることなく。

 けれど確かにここが、歴史の分岐点ではあったのだろう。








フッチ好きです。
2010.4.1


幻水TOPNEXT>

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