ふいに微笑んだあの人の

寂しげな瞳は



今でも心の中 澱のように ゆらゆらと

いつまでもいつまでも



たゆたっている






  どうか貴方に 祝福 を



 ガサリ
 音を立てて大きく動いた茂みへ、少女は慌てて振り返った。
 携帯していたナイフを握り締める。
 野生動物かモンスターか。
 ともかく小柄で力に自信のない少女にしてみれば、どちらも大して変わりはない。
 ガサガサと躊躇わずに突き進んでくる気配は、すぐそこまで近付いて来ていた。
 振り返った身体は固まったまま、ぎゅっとナイフを握り直す。
 緊張高まる少女の心中などお構いなしに、一際大きく揺れた茂みを掻き分けて姿を現したのは

「・・・良かった。やっと人がいた」
「・・・・・・・・・え?」

 どこからどう見ても、少年、だった。



++++

 少女が暮らすのは、山に囲まれた小さな村だ。
 東西南北、四方を山に囲まれている為、村を訪れる旅人が存在しても、それは目的を持って立ち寄ったということでなく、山道をうっかり外れたせいで迷い込んだという些か間抜けな結果がある。
 よそ者は目立つ。
 小さく狭い村の中では、人の目の行き届かない場所などないにも等しい。
 それはこの村に限ったことなく、規模の小さな村はほとんどがそのような状況だろう。
 だが一つだけ、同じような規模の他の村と違う点が、この村にはあった。

「おや、旅のお方かね」
「なんだぁ?迷子か、坊主!」

 閑散とした村で人口も少なくはあるが、すれ違う数少ない村人は、気軽に旅人に声を掛けていく。
 小さな村といえば、無駄なくらいに排他的だとばかり思っていた旅の少年は、フレンドリーな村人の対応に面食らっているようだった。
「はは。びっくりした?」
「・・・驚いた」
 悪戯が成功したかのように楽しげに笑う少女に、少年は苦笑を返す。
 人里離れた村といっても差し支えない村で、少女が唯一他人に自慢できるところだった。
「雪解け直後でそんなに大したものは出せないけど、良かったら家に来て。あたし、おばあちゃんと二人暮らしなの」
「それは・・・ありがたいけど」
「? 泊まる場所、今から探すの大変でしょ。宿屋なんてないよ」
 思わず言い淀んだ少年に、少女はきょとんとした顔で言う。
 少年の戸惑いを遠慮と取った少女は、少々強引に少年の腕を掴んだ。
「あたしもだけど、おばあちゃんの話し相手になってよ。旅人なんて珍しいんだもん」
「え・・・あ、ちょっと」
 慌てる少年に構わず、少女はずんずんと村の中を進んでいく。
 それを見かけた数少ない村人たちは、微笑ましいその光景を、目を細めて見送った。



 物静かな少年だった。
 口数が少なく、穏やかな喋り方をする。
 少女とあまり変わらない年頃に見えたが、一人旅をしているという。
 てっきり連れの人間とはぐれて迷子になったのだとばかり思っていた少女は、それはそれは驚いた。
 それが顔にまではっきり出ていたらしい。
 少年は困ったように苦笑し、同居している祖母には窘められた。
「これ、失礼じゃろ」
「うわ、わ。ご、ごめんなさい!」
「・・・いや、いいよ。よく言われるし」
 それはそうだろう。
 どう見ても少年は十五、六だ。
 戦災孤児とかならばその年で一人旅でもおかしくはないが、雰囲気的に少年は違うと思った。根拠はない。ただの勘だ。
 少女自身が戦災孤児に近いものだから、余計に分かる。
「さーてと。あたしは部屋の用意してくるから、おばあちゃんとお話でもしててよ、テッド」
 大きく伸びをして立ち上がった少女は、少年が気を利かせて手伝うと言い出す前に口早にそう言い置いてさっさと奥に引っ込んだ。
 少年はテッドと名乗った。
 その名を聞いた瞬間、祖母が微かに息を呑んだのを少女は見逃さなかった。
 普段あまり自分のことを話さない祖母なので、何が引っかかったのかは分からない。
 とりあえず二人でゆっくり話しててください、と少女はまず家の中から使えそうな布団を探し出すことにした。



 パタパタと少女の軽い足音が家の奥に消えていくのを見送りながら、少年は困っていた。
 人見知りをする性格は健在で、正直、初対面の人間と二人きりにされるのは大いに困る。
 何を話していいのかが、さっぱり分からない。
 しかも隣に座るこの家の主は、先程から穏やかに微笑んでいるだけだった。
 その視線は孫娘である少女が去っていった方へ向けられている。
「・・・働き者の、お孫さんですね」
「おや、そう見えるかい?そりゃ良かった」
「はい。昼間も薬草を大量に摘んでましたし」
 山の中で少年と遭遇した時、少女は薬草を採取しているところだった。
 そこにいくつか毒草が混じっていたのを指摘したのは、少年だったが。
 明るい性格をしているらしい少女は、その指摘に顔を赤らめながらも無邪気に笑って少年を村まで案内してくれた。
「あの子は早くに親を亡くしてね。わしが育てたようなもんじゃが、明るい娘に育ってくれて良かったよ」
 ゆっくりと話す老婆の瞳は、どこまでも優しい色を宿している。
 穏やかで優しい空気。
 少年はそっと目を伏せた。
 この村に、長居は出来ないと直感が告げる。
 明日にでも出て行こう、決意した少年が顔を上げると、老婆の穏やかな瞳とぶつかった。
「テッド、というのは本当の名ではないじゃろう?」
「・・・っ」
 不意打ちのごとく言われたその言葉に、少年は動揺を隠しきれず目を見開いた。
 何故・・・
「名乗る時に一瞬、躊躇したね。それに、なんだかしっくりこないよ、あんたにその名前は」
 言いながらどことなく寂しげに伏せられた瞳が揺れている。
 まさか、と思った。
 自分の察しの良さは、親友のお墨付きだ。
 老婆の年齢から推測しても、ありえないことではない。

「テッドを、ご存知なんですか?」

 今度は老婆が目を見開いた。
 そしてくしゃりと、皺だらけの顔を更に皺くちゃにしてポツリと呟いた。
「二度、会ったことがある」
「二度?」
 首を傾げる少年に、老婆は微笑んで同じように首を傾げる。
「わしが幼い頃に一度。それから大分経って、子供が出来た頃にもう一度。記憶の中と同じ姿と声で、同じ名前を名乗ったよ。・・・信じられるかい?」
「・・・・・・」
 少年は真顔で黙り込んだ。
 そして密かに内心で、親友のうかつさ加減を罵倒する。
 追われて逃げていた割に、彼は偽名を使うということをしていなかったようだ。誰に対しても。
 珍しくはない名前だからといったって、いくらなんでもそれはないだろう。
 少し抜けているところのあった親友は、根本的に抜けていたらしい。
 少年の沈黙をどう受け取ったのか、老婆は穏やかな表情に戻って優しく細めた瞳を向けてきた。
「あんたから、彼と同じ空気を感じた。それに、彼・・・テッドも今のあんたと同じように時々、右手を大事そうに抱えておった」
 ハッとした。
 右手を気にするのは、もうすでに無意識だった。



「お待たせ!用意できたよー」
 意外とてこずった布団の発掘を終えて、ひょこりと顔を出した部屋の中には、微妙な空気が流れていた。
 あれ。
 もしかしてなんか失敗した、あたし? と首を捻っていると、テッドと名乗った少年が静かに席を立った。
 言葉はない・・・と、
「彼は、今どうしてるんだい?」
 祖母のその静かな言葉に、少年の顔が不自然に歪んだのを少女は真正面から目撃してしまった。
 辛そうに歪んだ顔は、今にも泣き出してしまいそうで、少女は思わず自分の胸辺りの服を掴んで口を真一文字に引き結ぶ。
 顔を少しだけ振り向かせた少年は、俯いたまま小さく声を絞り出した。
「亡くなり、ました・・・」
「・・・・・・そう」
 掠れた少年の言葉に、祖母はしばらく黙ったあとに、ぽつりと短く呟いただけだった。
 どうしよう、とオロオロしている少女に向き直った少年は、悲しい瞳をしたまま微笑んだ。
「悪いけど、休ませてもらっていいかな」
「あ、うん」
 おやすみ、とか細い声を残して、少年の華奢な背中が遠ざかる。
 声をかけられることを拒絶している背中だ、と思った。
 その背中に、既視感を覚えて首を傾げる。
 似たような背中を、幼い頃にも見たことがある気がした。
 いつだったっけ、と首を捻っている少女の耳に、祖母の呼ぶ声が聞こえて振り向く。
「彼はね、明日にでも出て行くつもりじゃよ。薬草でも用意して持たせておあげ」
「明日!?え・・・で、でも」
 まさかそんな急ぎの旅だとは思えなくてうろたえる少女に、祖母は首を振る。
「ひとところに留まろうとしない人間が、たまぁにいる。事情は知らんがね。だけどきっと、あんたはまた会えるじゃろう。・・・わしが、そうであったように」
 摘んできたばかりの薬草をあわあわと用意する傍らで、祖母が最後に小さく呟いた一言の意味が分かったのは、それから何十年と経った後だった。



++++

 翌朝。
 軽い朝食の後で、少年がお世話になりましたと立ち上がった。
 本当に出て行こうとする少年の姿に少女は驚いたが、昨晩の内に用意しておいた薬草を詰め込んだ袋を片手に、家の外まで華奢な背中を追い駆ける。
 ずいっと目の前に突き出された袋に、少年は目を丸くした。
「薬草。必要でしょ、使って。あのね、おばあちゃんがごめんって。聞いちゃいけなかったかもしれないこと聞いてごめん、て。・・・あたしにはよく分からないけど」
「・・・いや、俺の方こそすみませんと伝えておいて。あと、彼は俺の親友で最期には笑って逝った、と」
 悲しげに呟かれた伝言に、こくりと頷く。
 祖母の知っているかもしれない人が、少年の親友だったという矛盾とも取れる事実にはあえて何も聞かないでおいた。
 向けられる微笑みに、今度こそ重なる面影を思い出して、少女は一瞬動きを止める。
 どういうことだ、と頭が混乱したのも一瞬のことだった。
 ありがとう、と呟いて向けられた背中に少女は迷わず叫ぶ。
「あたしのお父さん、赤月の・・・トラン解放戦争で解放軍の兵士だったの!」
 ピタリと足を止めて振り向いた少年の表情は、朝日の逆光でよく見えなかった。
「その時あたしはまだ小さくて、お父さんが戦場で死んだって聞かされてもよく分かんなくて。泣いてるお母さんの傍にいるしかなかった。この村はお母さんの故郷で、戦争が終わって戻って来てからすぐにお母さんも体調崩して、そのまま・・・。けど、けどね。あたし、解放軍の人たちが何の為に戦ったのかは知ってる。お父さんがいつも言ってたの、守りたいもんを守るためだって。軍主様だってそう言ってるんだから自分たちは逆賊だって言われてても間違ったことはしてないって。それ話してる時のお父さんとお母さんの顔はいつだって笑ってた。だから、あたしの記憶の中の両親はいつも笑顔なの」
 長い言葉を慌てて吐き出したせいで息が弾んだが、少女は真っ直ぐに少年へ笑顔を向けた。
「あたしだって笑ってる。だからきっと、きっとね・・・軍主様も、笑っててもいいと思うんだ」
 表情の見えない少年が、目を見開いた気配がする。
 少年の反応に構わず、少女は最後に一言とばかりに叫んだ。
「ありがとう!! またね、テッド!」
 くるりと少年に背を向けて、少女は振り返らずに家の中へ駆け込む。
 背中に触れた扉越しに、少年の足音が遠ざかる。
 まだ弾む息の合間に少女は泣き笑いの顔で呟いた。

「ありがと。元気でね・・・・・・ ラディさま」

 顔を上げた部屋の中では、祖母が微笑みを湛えている。
 彼には何が残ったのだろう。
 幼かった少女には理解できないほどの重圧を、当時少年だった軍主は背負っていたはずだ。
 孤独を感じる背中と悲しげな瞳は、記憶の中の姿と変わらなかった。
 もし。もしも。
 今度また会うことがあったらその時は。
 笑っていてくれたらいい。
 あの綺麗に澄んだ瞳から、悲しい色が消えているといい。





 澱のようにゆらゆらと
 記憶の底に沈んだままの
 寂しげな瞳と再び出会ったのは



 それからずっと後のこと。



 小さな手を大切そうに握る、かつての少女の姿を見つめる少年は。
 澄んだ瞳を細めて微笑みを浮かべて手を振った。

「おかーさん、いまのひと、だぁれ?」
「え?そうね・・・ たくさんの人の、大切なものを守ってくれた優しい人よ」
「ふぅん。おかーさんのたいせつなものも?」
「ええ。ふふ、きっとまた、あなたも会えるかもしれないわね」
 きょとりと目を開く子供に微笑みを向けて、空を仰いだ母親は、ぽつりと小さく呟いた。

「これから先も、どうかあなたに・・・祝福を」








こんな出会いと別れのループもいいと思う。
それと、テッドは抜けてる人だったということで(ヲイ)
2010.10.1


幻水TOPにもどる

Please do not reproduce without prior permission.